2019さが総文プレ大会での構成劇「蒼天の翼」どうにかプレ大会でのバージョンは終わったと言ってもいいのか。
来年はどうなるか分からないが、とにかくこの物語には考えさせられた。
まずは物語。
こういうボクのような仕事をしていると、なおさら生きにくく感じる世間の風みたいに、社会的にはそう見られていると思う。
好きな事をやってきて、仕事をするというのは、なかなか難しいと思われている。
所詮は好きで仕事をしてない奴の方が生きにくいのだろうが、好きな事をやってると言うだけで、光が強い分、陰も濃くなると言う事だろう。
風を吹き散らすと、周りの人は迷惑を被ったりする。
普通に生きてれば、周りとも同調し、周りにとやかく言われることもなく、自分さえおさえていれば・・・なんて言う思想になるのだろうが、そうは問屋は卸さない。
心が抑圧されれば、摩擦熱がストレスになり、体を蝕み、考え方もおかしくしてしまう。
好きな事をやっていれば、人様には鬱陶しがられても、世のため人のためになっていれば、多くの人を仕合わせにしたりもできる。
もちろんそのために壁は現れ続けるのだろうが、自分で蒔いた種だと思えば、乗り越える知恵も沸いてくる。
世間の多くの人はサラリーマンと呼ばれる社会の歯車と呼ばれる人だと思われているし、学校教育なんかは、起業家や芸術科を育てるよりも、この大多数の人が生きやすくなるようなカリキュラムを消化させられている。
しかし、サラリーマンはサラリーをもらっているからそう呼ばれるだけで、どんな職場のどんな部署にいようと、クリエイティブな感性がないとやっていけないのは、本人たちが気づいているはずだ。
言われたことだけをハイハイと言っているうちも、確かに人様のためになっているのだろうが、そこに人の知識や知恵を越えて、センスが加わったときに、自分も人も幸せな環境が生まれるのではないかと思うのだ。
それは起業家や芸術家と何ら変わりない。
すべての人に心があって、それはつながっていて、そこで創造的な仕事がやれるから人は進歩できるんだと思う。
「蒼天の翼」は高校生が演じるからタイムリーであって、この作品を学校の教師が書いているというのも面白い。
つながっていると言うだけで、そこを理想郷にしてはいけないし、現実にふんぞり返ってもいけない。
真綿で首を絞めるような作品なのだ。
現実で生きるのはそう簡単ではない。しかし、そう難しくもない。
ほとんどの人が自殺もせずに人生を全うしているのだから、未来もほとんどの人が現実にうつつを抜かしながら生きて行くのだろう。
しかし、それを良しとはしない。
その先の生き方をしろ!と言っているのだ。
維新期の人物がそこに描き出されているのは、夢を持って生きることがどんなに辛いか!?それでも人は夢を持って生きなくては、何のために生を得たのか?という生き様を問う物語になっているのだ。
それでも人は創造していかなくてはいけない。
小さな創造から大きな創造まで、大きさなんてどうでもいい。
とにかく人はゼロからものを創り出す才能を与えられて生まれて来ている。
そこに蓋をしてしまえば、エネルギーは生まれることなく、人から与えられなくてはいけない羽目になる。
創造することを思い出すことが、自らに羽を与え、どこまでも飛んで行ける可能性のある人となる。